学習法

アルジャーノンから学ぶ「漢字を学ぶ理由」

「うらにわのアルジャーノンのおはかに花たばをそえてやってください」
これは1959年(私が生まれた年)に発表されたダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』という小説のラストシーンです。
「アルジャーノン」は脳手術によって高度な知性を得たハツカネズミの名前。主人公の「チャーリー」は知的障害をもった青年でしたが、「アルジャーノン」の手術を人間に適用しようとする「実験動物」の対象に選ばれ、その結果、チャーリーは大学教授も太刀打ちできないような「超天才児」に生まれ変わります。しかし高度な知能を得ることによって、チャーリーは悲惨な自分の過去を知り、悩み苦しむことになります。やがて手術には深刻な欠点があったことがわかり、アルジャーノンは死に、チャーリーもまた次第に意識が混濁し、知性がふたたび退化していくなかで、最後に冒頭の手紙を記したところで小説は幕を閉じます。
本作品は、いくつもの賞を受賞し、また3度にわたって映画化されています(興味があったら是非本やDVDを手にしてみてください)。しかしここでお話ししたかったのは物語のプロットではなく、「日本語」の特質についてです。
原作では、チャーリーが高度な知性を得たのち、ふたたび退化していく過程が、英語のspellや文法の間違いや表現技法の巧拙によって表現されているのですが、日本語訳では「句読点」や「てにをは」、そして何よりも「漢字力」によって、原作以上に見事に描き出されています。最初に翻訳された日本語版は1961年、その後も何度か翻訳されており、どこからこのアイデアが定着したのかは未確認ですが、たまたま言語体系の違いとフィットしたとはいえ、これだけ見事に、原作さえ凌駕する表現を生み出した翻訳は他に知りません。
例えば
「裏庭のアルジャーノンのお墓に、花束を添えてやって下さい」という文章と
「うらにわのアルジャーノンのおはかに花たばをそえてやってください」という文章では、まったく「書き手」の知性が変化していることがわかりますよね。
漢字を学ぶのは、漢字が『表意文字』(※1)であり、漢字かな混じりの文章の方が意味を伝えやすいからだという話を保護者会でしたことがあります。あまりにできすぎた話ですが、実はその直後に私の携帯電話(iPhone)が故障して、メールの漢字変換機能が壊れ、ひらがなしか表示できなくなったのです。
「これからしゅっしゃしてあんけんをしょりします。めいわくをかけてきょうしゅくですが、せんぽうにそのむねれんらくしておいてください」
などというめーるをうつと、じぶんがちゃーりーになったようなきがします。あいてからは「了解しました。ひらがなのメール、ウケます(笑)」というへんしんがとどくのですが、こちらはわらいごとではありません。かんじってべんりだなあとつくづくおもいしりました。
最近、小学校での英語教育が本格的に導入されるようになりました。確かに教育における「国際化」の必要は否定できませんが、「漢字」と「かな」の組合せによって、一語一句同じ文章でも多様な表現が可能になる日本語固有の表記法の美しさや便利さを忘れるべきではありません。
ひとつでも多くの漢字を読み、書き、使いこなすことは、理科や社会の学習を進める上でも絶対に必要なことです。いや、少なくとも現在の日本においては、漢字の習得はそのまま知的水準の向上につながるといっても過言ではないでしょう。
だから、「面倒くさ~い」なんて文句を言わずに、毎日こつこつと漢字の書き取りをすること。生まれ育った自国の文化の基礎をおろそかにして、将来「国際社会」で活躍することなんて、できるはずがないのですから。
※1 漢字そのものがひとつの意味をもっているということ。英語と比較してみれば、わかりますよね。「New York」(ニューヨーク)という語の「N」や「e」一つひとつは「意味」をもっていませんが、「東京」は「東」の「京」(みやこ)です。厳密にいうと、漢字は「音」も表しているので、「表意文字」という分類は正しくないそうですが。
ABOUT ME
kurotama
元進学塾教師。今年の1月末に健康上の理由で円満退職し、いまは原稿執筆など、在宅でできる仕事をボチボチと始めています。